
佐用郡は出雲街道と因幡街道の交差する位置にあり、古来交通の要衝でした。八割近くが山で、山間の盆地に町が点在している。
作用郡の地名由来は播磨風土記
讃容郡(さよのこおり)」に見える。
「大神夫婦の二人がこの地で国占めの争いをされたとき、玉津日女命が」生きた鹿を捕らえて
腹をさき、鹿の血に稲をまかれたが、一夜にして苗が生えそれを手ずからお植えになった。
これを見て夫神が「あなたは五月夜(さよ)に植えたのか?」といって自分の負けを認められこの地を立ち去られた。それ以来この地を五月夜郡(さよのこおり)というようになり、妻神を讃容都比売命と云われるようになった。