
陰陽師である、安倍晴明と芦屋道満はこの佐用町で最後の決戦を戦い安倍晴明が勝利しました。佐用町大木谷地区に安倍晴れ明の塚があります。「いぶし晴明塚宝篋印塔」とあり室町時代前期の建立とされています。この晴明塚は京都の晴明塚と緯度が全く同じで、真西に位置しています。平安時代に生まれた晴明は、
天文道を中心とした陰陽道に卓越した能力を開花させた。陰陽道は聖徳太子の時代に陰陽五行説を律令制度に取り入れられ,国家機関の中核に深く関わっていきます。
晴明塚から一度谷側に下り、迂回しながら反対側の小山を登った所に「道満塚」があります。安倍晴明とライバルだった芦屋道満(写真)は、晴明にも劣らない呪術能力を持つと云われ
、晴明は藤原道長、芦屋道満は藤原顕光のお抱え陰陽師であった。左大臣藤原
顕光は、芦屋道満に政敵・道長への
呪詛を命じたが、晴明に見破られたため、主人の信頼を失し失脚した道満は播磨に流された。播磨の佐用に流された道満は、この地にあっても京の道長に呪詛を続けた。これに気付い
た晴明(播磨守に任官)が、佐用に赴き決戦となり大木谷を挟んだ東西の丘に対峙し
呪詛を戦わせるが、三日三晩の死闘の後、道満が力尽きて晴明に討たれてしまった。
現在も、佐用町にはこの戦いの後が残っていると伝わっている。